船驾不住风

大阪万博は千里の竹林を切り開いて会場にしました。
愛知万博は長久手青少年公園と瀬戸の雑木林を切り開いて会場にしました。

  愛知万博では開催反対派による多少のトラブルはありましたが、周辺住民への影響はさほど無かったと思います。そう言えば、末広○○子と言う議員がいましたね。彼女は、瀬戸の山中の木に「万博反対」の木札を提げ、愛知万博反対を公約にして、当選しました。しかし、当選後、賛成派に鞍替え、その変節を讃え「無節操の木」と改名された木が、今尚、海上(かいしょ)の森に残されているらしい。
  老子声望,子女沾光(親の七光り)、假虎威狐(虎の威を借る狐)の○○真紀子も何度も変節しましたね。子供の命名には「まきこ」は避けたほうが賢明かも知れません。

  上海で万博が開催されると聞いたとき、中国は領土も広いので、会場の確保など何の問題もないだろうと思っていました。
浦東空港から、上海市内に入るまでにも広大な土地が広がっています。きっとこの辺りが会場になるのだと勝手に想像していました。上海トランスラピッド(リニアカー)が会場に乗り入れするとの発表もありました。だから上海中心部より離れていて、人も住んでいない場所だろうと、これ又、勝手に思っていました。

上海万博の開幕一週間前に、浦東会場までの交通、周辺の状況の下調べにいきました。
すると、私の想像とは全く違って、街のど真ん中に会場はあったのです。会場のすぐ隣には学校もあります。「弄 nòng」とか「小区」と呼ばれる、一定区画で仕切られた居住区に取り囲まれるようにして会場はありました。
写真左 学校の隣には中国館が見えます。

周辺の居住区は防犯の為、出入り口はとても厳重な管理がされていました。


  万博会場になる前の土地には1万8千人もの住民がいたそうです。国家的行事の開催には結局のところ船驾不住风、(船は風をコントロールできない、風がそのように吹いたらその通り進め)⇒(日本語解釈:長いものには巻かれろ)と言ったところでしょうが、住む場所を奪われた人々の不満は幾ばかりか図り知れません。万博協会は、開幕リハーサルに彼らを招待したそうです。

大阪万博は跡地を万博公園として残しました。。
愛知万博も、一部は万博公園として残し、それ以外は元の自然に戻しました。

上海万博も中国館は万博記念館として残すものの、跡地は早くも不動産業者が入札に向けて動き出していると言う。そろそろ、誰が、何故に、この場所、しかも会場を浦東地区と浦西地区に分けた本当の理由が見えてくるはずです。

キーワードは「特別行政区」??